世の中ハッタリ
最近気付いたのだけど、世の中のあらゆる事が、わりと、ハッタリだったみたいです。
というより私が無駄にあらゆる事のハードルを高くしていたみたい。
本を書いていた人に会ったら、
無茶苦茶な人だったり
雑誌に紹介されていた人に会ったら、
全然尊敬できない人だったり
盛り上がってそうなイベントに行ったら、
超盛り上がってるわけじゃなくて
超意外と静かだったり
大層に宣伝しているものを食べたら
なんてことのない味だったり
私が頭の中で「凄そう」と思っていたよりずっと、大したことなかったんです。ハッタリだったんです。
愛すべきコミュニティ、愛すべき景色
「人の幸せは良いコミュニティに属せたかどうかで決まる」そんな事が書いてあるブログ記事。
http://inkyodanshi21.com/blog/13478/
ほんとにそうだなぁと思いました。
今私の周りにいる人たちは面白い人とか素敵な人ばかりと感じていて(それは私にとって面白いとか素敵な人って意味だから、その人達が必ずしも万人にとって素敵な人とは限らない訳ですが、兎角私にとっては素敵なわけです)、私はやっぱり「今日もいい事あった〜」とか「今日も面白かった〜」と幸せを噛みしめるわけです。
(そういう時ばかりが続くとも思わないし、変な人だとか、この人好きじゃないって人がいることは悪い事ではなくて、そりゃあいるし、ただ「いる」という当たり前な現象だと思うのですが、なんとラッキーなことに今は「みんな面白い、素敵」という稀な現象がおきているわけです。あるいは、苦手と思う人を気にしなくなったのかも。)
「良いコミュニティ」と共に、「良い景色」というのも大切だと思うわけです。例えば富士山とか、北アルプスとか、広大な青空とか、四万十川とか、もりもりの山とか、色づく秋の森とか、わっと咲く山桜とか、チロチロかわいいツリフネソウとか、子どもが泥だらけになってかけまわる姿とか、道端でおばあちゃん達が座って喋ってる姿とかね。
富士山が美しく見える町に住んでいる人にとって、「今日も富士山がきれいだ」「今日は一段と美しい」そんなふとした瞬間はとても大切な日常のひとコマってこともあると思うんです。
私にとってもやっぱり、「今日の山は昨日より色づいてきた」「人参の葉っぱがもりもりしてきた」「彼岸花が満開じゃないか」「と思ったら枯れてきてもう終わりか…」とかそんな瞬間が大切なんですねー。良いコミュニティにいて「今日もあの人の笑顔が一段と冴えてた」と思うのと同等に、幸せを感じるわけです。好きなんですよ。挙げたらキリがないくらい、好きな景色があるんです。
気づいてしまった幸せ、これはもう失うのは哀しいわけで、なくしてしまうと「ツライ」とさえ思ってしまう。かなしいことに。
好きな人達が楽しくしている姿というのと同じくらい、好きな景色が移ろう季節の中で絶妙に変化していくのを見ているのが好きなんですよ〜。どこに住んで、どんな景色に混ざっていくのか、自分はどんな景色になるのか、どんな景色を作るのか。迷走中であります。
確固たる意志を持って突き進むのは苦手ですが、なんとなく流されていくのは得意なので、おすすめの場所があるという方に流されるのもありかもと。流されたくなる流れを見つけたいもんです。
ちょっと話が戻りますが、意識して嫌なコミュニティからは抜け出す(8月までいた前の職場のことですが…😅)のは大切でした。抜け出したから今、良いコミュニティにいられるわけなので。だからこの景色からも抜け出したら、良い景色にいられるのか、というと確かではなく不安なわけで。しかも良いコミュニティにいるのに抜け出すのも何だか…と惜しいもので。しかしこのままでは何だか…という気持ちもあり、迷走めいちゃんなのです。
既に愛すべきコミュニティや景色を「これだ!」と持っている人を羨ましいと思っている時期もありました。けど私がそれを持っていないのかというと、そんなことはないのです。私は定住の地こそまだ見つけていないしアルバイトの身。だから持っていないと思っていたけれど、だけど、愛すべきコミュニティと愛すべき景色はもう既に沢山持っているのでした。それに気付いたのは特記すべき事項〜。
けど、もうちょい何て言うか、責任の発生する愛すべきサムシングを持つというのが必要なんだと。そしたらはじめて見えてくる世界があるんだろうなと思うし、欲しいからね。欲しいものを手に入れないのは勿体無いから、やっぱり必要なんだろうということです。ほい。
社会的に「終わった」と思われても人生はまだ終わらない
乙武洋匡さんのインタビュー記事に出会った。とても共感した。
社会的に「終わった」と思われても人生はまだ終わらない
五体不満足でありながらもアグレッシブに活動し、明晰な頭脳と鋭い洞察力で人気を得てきた乙武さんは、自身の不倫騒動でマスコミにも世間にも叩かれた。この時、乙武さんはまさに「社会的に終わった」と言える状態にあった。
そんな騒動から2年余りが経ち、新しい小説「車輪の上」を書いたことによる乙武さんのインタビュー記事がこれだ。https://ddnavi.com/interview/498372/
その中で乙武さんは「『あいつ人生終わったな』と思われても僕の人生はまだ全然終わってない。むしろこれからの方が長い場合もある」というような事を言っている。
私にも「終わった」と思う出来事があった。
2015年の事だ。
遠路はるばる、千葉県から高知県の私のうちまで友人が遊びに来てくれた。
そして折角四万十に来たのだからと四万十川に遊びに行った。楽しく遊んでいたがライフジャケットは着けていなかった。そして彼女が川に流されて亡くなってしまった。
本当に文字通り彼女の人生は終わってしまった。悔やんでも悔やみきれず、悲しんでも悲しみが尽きることは無い。
そんな絶望的な感情の中「私終わった」「もう誰にも合わせる顔がない」そんな風にも感じていた。同時に、人が一人亡くなったというのに今後の自分の事を考えるなんて穢らわしいという気持ちにもなったのだが。
その時、私は「社会的に終わった人達」の気持ちを理解したような気がした。私も終わったと…。しかし、幸か不幸か私は生きていて終わりたくても終わらない。私の人生は続いていたのだ。
あの事故は嘘みたいな話だと今でもたまに思う。嘘であればよかったと心から思う。けどやっぱり本当で、彼女の人生は終わってしまったし、私の人生は続いてしまっている。
そう。
命を絶たれない限り人生は続いていく。
人は過ちを犯すし完璧なんてありえない。誰かから見た長所は他の誰かから見た短所になりうるし、逆もまた然り。
だから、何があってもどんなに嫌なやつでも、社会的に終わったとしても、なかった事にしないであげてほしい。無責任に追い詰めないであげてほしい。ずっと生きていなくてはいけないんだから。死なない限り人生は終わらないのだから。
お米がおいしくない話
最近うちで出てくるお米がおいしくない。
これは私にとって死活問題だ。
日々の喜びが失われてしまったんだ〜!
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私が感じているおいしくないお米というのが何か説明しよう。
まずツヤがなくて見た目においしくなさそう。炊きたてに「ホワッ」と広がる甘い香りは全くない。口に含むとヌカのような、爽やかでないにおいが残る。炊きたてはまだしも、少し古くなると雑菌が混ざったような何とも強烈なにおいがして、せめてチャーハンかチキンライスにしなくちゃ食べられない。おいしくないのだ。
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ご飯の味を決める要因はおそらくこの4つ。
水、炊飯器、炊き方、米。
水は実家の水道水を使っている。前から良くはないが悪化してもいないので原因ではない。
食感が著しく変化したわけでもないし、炊く人も変わっていないことから、炊き方や炊飯器に原因があるわけではないと思われる。一応炊飯器のニオイをかいだり洗ったりしてみた。
つまり、買ってきたお米に難があるようなのだ。
しかし家族中の誰もがその事を共感してくれない。
なんてこった。
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逆に私の思うとてもおいしいお米というものを説明しよう。
まず炊飯器をあけると「ホワッ」と甘い香りが広がり思わずヨダレがわく。お米はツヤツヤと光って一粒一粒が凛と立つ。一口食べると甘味と旨味がフワリと広がり、後味は爽やかにぬける。白ご飯だけでも美味しいし、納豆、海苔、味噌汁、漬物、生卵などのあらゆる素材とシンプルに組み合わせるだけで大満足のおいしさだー!!
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さて、ここまで読んでどれだけの方が私のこの苦しみをわかってくれただろうか。お米がまずいという事がどれだけアンハッピーかということを、どれだけの方が共感してくれるだろうか。
もし共感できない、という方がいらしたら、ぜひおいしいご飯の喜びを知ってもらいたい。日本人であることに細胞の一つ一つが喜びを覚えるような、そんなおいしいお米を知ってもらいたい。
しかしそんなお米を1週間も食べると、他のお米になった時にゲロまずくて食べられなくなる可能性があるのでそこはご了承願いたい。ありがちなのはファミレスの米。あれはたいがいゲロまずい。
どこに標準を置くか、何に幸せを感じるか、という話になってくる。
私の友人で、こんな主張をするやつもいる。「普段から美味しいもの食べてると本当に美味しいものに出会ったときの幸せレベルが下がるからさ、特別な時に感動できるように普段は美味しくない物をあえて食べてるんだ」と。
けど私はお米にはハレの日よりケの日の美味しさを求めたい。毎日ご飯で幸せを感じたい。だからちゃんと、おいしいお米を買おう。そう強く思うのでした。誰から買おうかなぁ。
そんな話でした。
なんでブログをはじめたのよ
今日はブログをはじめた訳を書いてみよう。
私の友人にまゆゆというお姉さんがいる。彼女はLGBTSであることを公開していて、「女性というよりは中性より」らしく正確には「お姉さん」でも「彼女」でもないかもしれないが、私から見た彼女はおもしろいお姉さんの様な存在。とても尊敬している。
動物看護師の彼女は思い立って高知県須崎市に住み始めて、ペットのセカンドハウスを作った。同じ敷地内でペットと泊まれるゲストハウス「どうぶつすどまりBOOK」も運営している。FacebookやAirbnbで宿の様子はいつでもチェックできる。https://www.facebook.com/doubutsubook/
ペットを飼いきれなくなった方や看取り方を考える方に親身になってサポートしてくれるプロフェッショナルだ。日頃のケア、震災時の同行避難、殺処分ゼロのありかた、そんなペットに関する様々な情報を発信している。
まゆゆは他にもLGBTSや高知県須崎市、独立起業などの情報を発信しているので毎日見ていておもしろい。
気になった方にはぜひフォローしてほしい。
武田真優子
https://mobile.twitter.com/aisu_dog
そんなまゆゆが、私に「めいちゃん面白そうだからブログはじめてみなよ」「めいちゃんは文を書くのうまいと思う」等と言ってくれた。
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丁度、最近の私のポリシーに「下手でもへいき、どんどんやろう」というのが加わったところだった。これは昔読んだ絵本に書いてあった一節だったように思う。ばばばあちゃんの本だったかなぁ。
知り合い達がラジオをはじめたり、カフェをはじめたり、フェスをやったり、なんだか面白そうで。そしてそれは完成度が高くなくてもいいの。「その人がどんな事を考えて何をやっているか気になる」という興味を満たしてくれる。それだけで面白い。表現者であれ。
たまに「どうしようもなく自己満で、身の程知らずな企画」に出会う事もあるけれど、そうやって批判して何もしないままの自分はあんまり面白くなくてね。それは辞めようと思った。
下手くそでもね、少なくとも「その人がどんな事を考えて何をやっているか」と気になってる友人の好奇心くらいは満たしてくれるしさ。
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つまり、私もなんかやってみっぺーという気持ちになっていたタイミングで「ブログやってみればー」と言ってもらったと。
私の周りの10人くらいの友達が「めいちゃんこんな事考えよるがや〜」「めいちゃんこんな事してるんだ〜」と思ってくれるための、すっごくニッチなブログでいいやと思ってはじめる事にしました。ぼちぼち好きなことを綴ってみようと思う。
じゃ今日はこのへんで。